「臭気」

2003年7月17日
ドクターの前には中年の婦人がいたわ。
病院の地下にある精神科外來の一室。
室内にはなにか鼻を突く臭気。
トイレが近くにあるせいかな。

座っているのは、どこにでもいるような普通の「オバサン」。
ただ年齡にしては少し着ているものが派手。
派手なオバサンなど別に珍しくないけど。
 
ドクターはセオリー通りに病歴から訊き始める。
婦人がまず口にしたのは、大学時代の話。
 
高校生の時は学力優秀な少女だったらしい。
早稻田に入学、しかし大学生活の間に
徐々に精神が不安定になっていった。
 
大学にゆく気が起きずに一日中寢ていたって。
たまに大学に行っても講義に興味を感じられず、
すぐに帰ってきてしまったらしいわ。
 
そんな彼女の精神の支えとなっていたのが、
大学で知り合った同級生の男性?
グループで何回か逢ったことがあるだけだったけど、
彼女には彼が自分を愛していることがわかってたってさ。

彼女も彼を愛していて、彼の事を思うと
いてもたってもいられなくなったらしいわ。
彼を思うあまり、突然彼の家に押し掛けて
行ったりもしたようね。
 
彼女は、ドクターに向かって嬉しそうに
彼の事を話していたわ。
もちろん、ほんとは彼は彼女を愛してはいないのよ。
これは分裂病によくある恋愛妄想だから。

放って置けばいつまでも大学時代の話を続けそうなので、
ドクターはその後の話をするよう、彼女を促したわ。
だがその後の話は、簡單なものだったの。
彼の家に押し掛けた後、精神病院に入院。

大学を中退し、病院に通院しながら
事務職に就くけどすぐに離職。
以後幾つかパートで働いたけど、どれも長くは続かず
現在は姉と二人暮らしだそうなの。
 
現在、大学時代の彼は別の女性と結婚し、
子供もいるというの。
でも彼女は今でも彼を愛していて、
彼もまた彼女を愛していると
「知って」いるって。

彼の話になると、彼女はまた幸福そうな表情を見せたわ。

つまり彼女にとっては、現在もまた
長い大学時代の延長に過ぎないのね。
三十年間、彼女は止まった時間の中を
生き続けているのよ。
そして彼女は三十年間、彼を愛し続けている。
 
ドクターは問診を終え、彼女は待合室へ。
氣になっていた臭気はかき消すように消え、
私は初めてその臭気を
彼女が発していたことに気づいたの。
分裂病患者は、身だしなみに全く
気を使わなくなってしまう。
 
幸せな家庭を築いているであろう彼は、
おそらく彼女の事など憶えてはいないだろうし
でも彼女は彼を深く愛し続けている。

彼女の止まった時計を再び動かすことは、
多分不可能なのよね。
とすると、彼女は生涯彼を愛し、
彼に愛されていると信じながら生きて行くのよ。
これはこれで幸せなことなのかもしれない。


それに、これこそがまさに

「まともな純愛」じゃない?。

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